昭和42年9月2日 朝の御理解


 信心を進めて行くと云うことも難しいことであり、又一段と信心を進めるということはどういう様な事かということを分かることもみやすいことではないと思います。
ね、これはよく皆さんが申しますのですけれども、信心の当初の間はようおかげを受けたのに三年五年とこう立って行く内に目を見張るようなおかげになって行かない。  段々この頃おかげが薄らいできたと云う様なことを聞きます。それはどういうようなことかと云うと、初めの間は信心が分かっていないのです、ね。分かっていないから分かっていないなりにおかげを下さるのですよ。分かっていないなら無理ないのですから。ね、 初めから和尚は居りません。ところが段々信心の稽古に通うてきて信心の話を頂かせて貰い、信心とはどういう様なものであるか、どうあらねばならないかと云うことが分かって來るにも拘らず、それを一つも行の上に表して行かない。いわゆる信心が一段一段と分かっては行きよる様であっても、進んで行かない。ですから、おかげがそれに平行して伴うて行かないと云うことになると思うのです、ね。ですから、信心を進めていく。信心を一段一段高めて行くと云うことはですね、同時にその信心が垢抜けして來れば來る程、おかげの方も垢抜けしてくる。おかげの方も一段一段高められた範囲の広いおかげになって來る筈なんです。ですからここんところを信心を一つ何かの機会に高めて行く。ね、
 そこで信心を一段一段高めて行くと云うことはどういう様なことか、只、今ではまあ、例えて云うならば月に十回参っとったのが二十回参る様になる。二十回参りよったのがもう日参する様になる。日参しよった者が日に二回も三回もお参りが出来る様になる。それじゃないと思う、ね。お参りが出来るようになった。沢山出来るようになったのが信心が出来るようになったのじゃない。信心が分かれば分かる程、そうしなければおられないことだけは事実ですね。
 けれどもそれが、なら出来たからと云うて、形の上に信心が出来たと云う訳ではない、ね。でも信心が一段一段と進んで、信心が一段一段と進んで信心が・・・・・進むと云うことによっておかげの方も進んで行くと云う。そこに一つの平行線と云うのがですね、出て來る。そしてそこに信心の進めて行かなければならない訳も進めて行く楽しみも、いわゆる出来る訳です。 そこで信心を一段一段高め進めて行くと云うことはどういう様なことかと、信心をしておれば、一年一年有難うなるとこう仰る。
 信心をしておれば一年一年有難うなって行かねばならないね。ですから、そんならいっちょ有難くならせてもらおうと思うてだけで有難くなれるものではない。いわゆる信心が若い。信心が一段と進められていかなければ有難くならんのです。ところが、何年前も現在も有難さに於いては変わらない。いやむしろ初めの時は何とはなしに分からんなりに生き生きとした有難いものが頂けておったのに、最近ではその有難いと云うものが薄らいで来た。云うならこれは信心はちっとも進んでいないと云うことになる。一年一年有難うなって行っていない。十年と信心が続いたらわれとわが心を奉れとさえ教祖が仰っている。十年と信心が続いたらわれとわが心が拝めれる。自分で自分の心が拝みたい様な心が出来て來る様に、その自分の心の神様を奉れと仰る、ね。ところが奉るだんのことか、自分自身の心と云うものを振り返ってみると、浅ましい限りで、こういう詰まらんことを自分の心の中にある、そういう自分である、と云うなら、これはいよいよ信心を本気で進めて行くと云うことはどういう事か。また信心を高めて行くということになってです、信心の高められると云うことにより、楽しい喜びと云うものを味あわせて貰えれるおかげを頂かねばならぬと云うことになる。
 私、昨日月次祭の時皆さんにも聞いて頂いたことでございましたけれども、堤さんの昨日のお届けと、息子さんの清さんの昨日のお届けとを中心にして、そのことを私皆さんに聞いて貰うた。ね、そのことを私つらつら思わせて貰えば思う程、夕べも今朝からもそれを考えているのですけれども、昨日私総代さん方にここの教会の設立のことが早く私の名義で出す様にと云うて教務所、本部を通してそういう連絡を受けた。昨日は正式に手紙を持ってそのことを布教所から通達を受けた。おかげで昨日はまあ一日がかりで福島さんがそのことの書類の作成に当たられましたけれど、と云う様なことになりましたから、総代さん方どうぞよろしゅうお願いしますと云う様なことを、私このお届けが終った後に皆さんに申しました。そのことを聞かれてから堤さんがお届けの終わった後に、またお届けされますのに、いよいよ合楽も合楽布教所から合楽教会にならして頂く前提でございますので、どうぞ今迄の様なまあ、信心では駄目である。今の様な状態では駄目であるから一段と信心が高められて、いわば合楽教会自体としてでもも他所の模範となる様な教会としてのおかげを頂きます様に。為には私共総代を初め一人一人の信心をそれにふさわしい信心を高めていくことをよろしくお願い致します。
 ここにお引き寄せ頂きます信奉者の一人一人がどうぞ嬉しゅう、楽しゅうしかも安心してここのお広前で信心の稽古が出来ます様にと云う意味のお届けがございました。もうそのことを感激一杯でお届けをなさいました。総代としての責任も感じられたであろう、堤さんのやはり信心がそういうことにならせたのであり、そうお取次を願わせたのであります、ね。したら私その事を色々考えて信心の稽古と云うものは嬉しゅう、楽しゅうしなければならん同時に安心をもって信心の稽古が出来なければならない。そのことをおかげを頂くと云うことが私今日皆さんに申します信心を一段と進めると云うことである。何かの機会にね。ここは布教所から教会にならせて貰うと云う形の上でも・・ことですけれども、その形に伴うて内容の信心も教会にふさわしい信心に、その教会にふさわしい総代としての信心を高めて行きたいと云うのが、まあ堤さんの願いであったとこう思う訳でございますがです、ね。その願いを私、堤しめ吉のその願いが、神様がお聞きになりそれを神様がお喜び下さる、その喜びが、感激が、感動が昨日堤さんがそのことを一生懸命でもうお届けなさった時のあの感動であったとこう思うのです。
 ですから、それをお届けになっただけじゃいかん、ね、だからその様に、ならおかげを頂く為にはどの様な信心にこれからならせて頂いたら良いかと云うことになるね。それにはやはり堤さん、清さんが頂かれました。昨日お参りになった方はお聞きになた様に別府とここの中間で堤しめ吉商店の自動車がエンコした。さあ辺りに自動車修繕するところがない。そこで、これは笠さんに電話を掛けて来て貰って修繕をして貰うより以外にないと云うことになったという様なお夢であった。それは今日あなたのお父さんがお届けをされたね、その事に対する、いわば答の様なもんだねと、云うてお話をしたことでございました。それは丁度、椛目から合楽へ、合楽へ参りまして合楽布教所から教会へと云うその過程にある。合楽布教所から合楽教会になっていくその過程にある。別府とここの中間と云うことは、そういうことなんでしょう。と、云うことを私昨日は詳しく皆さんに申しましたが、それをだから理解できますとですね、布教所から教会にならせて頂く為にお互いの信心が高められなければならない。それにはどういう様なことになって來るかと云うと、この度頂いて来た素直な稽古によって生まれた、いわば乗り物という自動車と云う一つのお徳というものがです、今エンコしておる。それを修繕する以外にない。笠雅二郎と云うのは、大坪総一郎のことであろうと云うてお話しました。
 私はその修繕から、先ずかからなければです、ぎっちりばっちりいかんじゃない、ね。自分自身の本当の信心と云うものを省みて、振り返ってみてです、ね、その破れておるところ、壊れておるところ、そこが修繕がなされて初めてその自動車が動き出す。そして動きだして教会と云うところに、いわば入って行く訳なんですね。布教所から教会へ、ここから別府へ。別府と云うのはそういう別の府と云う様な意味ですね。だから、ならさあ各々が何処をどう修繕したら良いかと云うことを考えなければならない。私は楽しゅう、嬉しゅう信心の稽古が出来る為に、どういう信心、こういう信心があると云うことを、昨夜皆さんに聞いて貰った。同時にぎりぎりのところを本当に嬉しゅう、楽しゅうしかも安心して信心が出来ると云うことはです、いよいよここでは私と皆さんと云う間の信心が本当の意味で交流し出さなければならないと云うことを申しました、ね。そして、ぎりぎりのところはどういうことかと云うことです。合楽にお参りをすれば、おかげを頂くからと云うのではなくてですね、おかげはもう問題じゃないことではないけれどもです、おかげを受けて受けて行かねばなりませんけれども、そうしておかげを受けていっておる、なら、大坪総一郎が言うたことが、大坪総一郎が言うた通りしたことが、それがよし地獄の道につながっておっても、さらさら厭わないと云う、ね。法然と親鸞のああ云う気持ち、師匠と弟子とがね、よし法然の言われることが地獄道につながっておってもさらさら厭わないと云う様に、師匠といわば弟子との云うなら惚れ合とでも申しましょうか。そういうものが出来た時にどんな場合だって迷わんでも済む。どんな場合だって心配することいらん。どんな場合だって安心が頂ける。堤さんの願いが成就する為に、そこにおかげを受けなければならぬと云う様なことを私昨日申しましたですね。
 先生があげなこつ言うが、あげなこつ言いよってから大丈夫だろうか。おかげになるじゃろうか。おかげ、そんなもの問題じゃないね。親先生が言われる。親先生任せにならせて頂けておると云うのが有難いのである。そしてそれが、そんなら地獄道につながる様なことになっておっても、さらさら厭わないと云う様なところまでお互いの信心が、さあ今そうなれるものじゃない。そこまでの信心が高められて行かねばならない、ね。第一に先ず、その自動車の修繕をすることが先決なんです、ね。いくらふくらかしたっちゃ膨れる風船の様なもの。そうな力んで吹きよるばってん、いっちょん膨れん。破れておるからね。先ずそこんところを気付かせて貰って、私はそこんところの修繕を先ずさせて貰わねばね、そこから私は信心を頂いていく。信心を高めて行く。信心を一段と楽しいものに、有難いものにすると云うことは、ね、吹けば吹く程と云うかね、
  はまれば はまる程と云うか、一生懸命になればなる程それだけの手応えのある様な信心とおかげと云うもの、いや自分の心の中に感ずる喜びとおかげとが平行していく、ね。そこに私信心の修行がなされなければならぬ。ね、そこに私は安心のいけれるおかげを受けられる。そういう信心がいっぺんに一足飛びに出来ると思われませんから、そういう信心を願いとしてそれを進めて行かねばならない。 どうぞ、私を初め、ね、いうなら堤しめ吉を初めここにお引き寄せ頂く信奉者のそれぞれがここに嬉しゅう楽しゅう信心の稽古に通うてこれれる様に、しかも安心して信心が進めて行けれる様に、しかも何処から見ても一つの手本にでもなる様な教会の働きになって参ります様にと云う願い、ね。そういう願いの中に私共が信心の稽古をさせて頂く。
 昨夜のお月次祭の後に頂かせて頂いた御理解をです、今日の方達は殆ど聞いておられませんでしたと思いましたから、昨日のその御理解の一部の所をまあ聞いて頂いたんです。
 今、合楽の動きと云うものがそういう事になっておるのです。ですから、本当に布教所から教会にならせて頂くその内容として私共一人一人の信心の内容も一段と高められなければならんが、そんならどげんして行くことが、高めることか。どういう信心になっていくことが、いわば合楽教会の信奉者としてのおかげを受けて行くことかと云うことを、皆さんの一人一人がこれは総代だけではない。一人一人が考えて頂かなければならないと云うことでございます。ね、 同時に初めの間はおかげを受けておったけれども、段々この頃おかげを受けられなくなったと云った様なことのないような信心。信心を極めていけば、行く程に、それこそ十年と信心が続いた。われとわが心が奉れれる様な信心。われとわが心が本当に自分自身がこの様な難儀な問題の中にあって、こんなに楽な気持ち、いやその中にこういう有難いものすら頂けておると云うことは、何というその有難いことでろうか。本当に信心の賜である。自分自身がこういう様な時に、それこそ赤面弁慶になって腹かいとったであろうけれども、そのことがかえって有難うなった。そういう自分の心と云うものを見せて頂く時にです、拝まなければおられない。自分の心を拝まなければおられない。そこに自分自身の心を奉らせて頂けると云うような信心が生まれて來る。
 そういう信心を皆さん願い、そういう信心を求めてお出なければならない。信心が分かると云うことは、そういう本当に信心をしておれば一年一年有難うなって行くと云うこと。一年一年有難うなっていっているかどうかと云うことを確かめる。もし、でなかったならば、これは先ず改まるということの方が第一であると悟らせて貰って改まらせて貰う。修繕することから、先ず先決にさして貰ってそこから私いよいよ磨いて行く。いよいよ限りなく美しゅうならして頂くと云う。限りない美しい心の中からそれこそ、自他共に誰のことでも、はあ気の毒だなあと思うたら、それを神心となりて人を導くことが出来る。神心となりて人を導くことが出来る。神心となりて人の事を祈ることも出来る。自分だけのことではない。本当に合楽全体のことを出来る様になる。村全体のことを祈れる様にもなる。もっともっと天下国家のいわば繁盛を、平穏無事をいのらせて頂ける様な心の状態にもなれれる。そういう時に私共は自分で自分の心が拝みたいような時ではなかろうかとこう思うのです。
 だから、神様を拝む稽古と云うことは、実を云うたら自分自身の心を拝む稽古をすることなんですね。  どうぞ。